東日本大震災直後の虚無感を脱しかけた頃である。やっぱり何かをせずにはおられなかった同士が「音楽で被災地を応援しよう」という旗のもと集まった。
ただ、駆けつけてみたいけど、熊本からどうやって行く?経費は?誰が行く?今行って本当に役に立つの?、、、と、その場では答えも出せず、色々な葛藤の末「熊本に居て応援しよう!」「東北に行くのはいつかの目標としよう」と名付けてはじめたのがこの『復興支援キャラバン from くまもと』。
それから10年目となる2021年3月、スタートして8回目の当イベントを今回開催することができた。コロナ禍で昨年は開催を見送ったが、今回は「ネット配信」というかたちでの開催を断行しよう。しかし実行するためには演奏動画の収集・編集、配信技術の確立など多くのタスクが必要となるが、すべて実行委員での自己調達をこころみることとした。スタジオはStudio JAMさんや今回もゲストと快く参加してくれた樋口了一さんにおおくのご協力を頂くことが出来た。
いささか不謹慎かつ場違いな表現になるのは承知の上でだけど、「コロナさま、さま」である。だってそのおかげで配信という新たな技術の取得と表現の手法を身に入れられたわけだから。
さて、内容については、地元熊本のミュージシャン達、遠くはご縁をいただいたロンドン在住音楽家などから心温まる楽曲とコメントの数々をネットを通して被災地へ届けることができた。
と、同時に、今なお震災の影響が続く東北の地に暮らしながら生活を前へ進めていらっしゃる方々とも直接会話をすることが出来た。 ZOOM画面の中でのふれあいになったが、対談させていただいた方々の真摯なご対応にまず感謝いたします。その中でみなさまの発する言葉の裏にはあの震災をくぐって来られた時間の流れが確かに感じられた。それはもはや良し悪しという概念を越え、否応なしにそれぞれの方々の魂に忍ばせた記録と今があるという歴史みたいな感覚。それが画面越しの表情と言葉から伝わってきたのです。
柴田さんにおかれては、愛娘さんが高校生活を遠い町で過ごさせなくてはならなかったことを地震ではく、まるで自分の責任みたいに語られ、しかしまたその裏にある原発事故への複雑な思い。「複雑な」としか表現できないが、その思いは私たちの想像を遥かに超えたものであることは否めない。
300年を超える窯元を移さざる得なかった境遇でも、震災をバネにして、更に新たな技術の開拓に余念の無い志賀さんとも対談させていただいた。そこで感じられたのはやはり、心のふるさと「浪江」への郷愁の念であった。規制が解除された地域では、知らぬカタチで知らぬ人々の手により復興が進んでしまう状況を嘆いておられた。寂しさを隠しきれないその言葉。やはり我々には想像も出来ない無念さがにじみ出ていた。
同じ人として、人生を送るうえで大切なものを無くした寂しさ、後悔や反省、焦燥の念というような感覚は、私を含み誰もが持ち合わせている思いであり、その感覚を共有し、今後も寄り添わせて頂くことを深く心に誓った。
そして今回も、シンガーソングライター、樋口了一さんのお力をお借りし、歌のメッセージをより深く伝えることができた。樋口さん自身も震災直後より女川への支援を独自で展開されてきたご縁もあって、女川の復興に汗を流しておられる高橋さん、鈴木さんとも対談の機会をいただいた。2016年の熊本地震の後には、熊本へのメッセージフラグを樋口さんに持ち帰っていただいた。あのときは、同じ震災後の私たちも逆に励まされた。そんな経緯もあり、両氏の街づくりに深く傾倒する時間の重さとエネルギーが画面を通してひしひしと伝わってきた。
樋口さんには、生配信のなかで短時間ではあったがライブをしていただいた。彼の唄う「1/6の夢旅人2002」は先述の女川でのライブでも町の人たちのこころを強く支えてきた音楽である。カメラの向こうにある女川、被災地の皆さんと「強く生きていたんだい~♪」と、その思いはチャンと届けられた。
音楽で何が出来るか???---------ずっと、今でも自問自答している田舎者の若輩者と自認する自分ではあるが、こんなにも多くの方々と関わりあえていること、そして、だれもが同じ思いで先に進んでいることを理解できただけでも、すこし自答は出来たことを自覚した、今回の『復興支援キャラバン from くまもと』であった。
自然災害の多い昨今です。どうか皆様も、それぞれをご自愛いただき、大切な人たちと平穏な日々を過ごされることを祈念し、いささか自己満足的な記述になりましたが、今回のイベントにかかわっていただいた方々への御礼と致します。
令和3年3月18日
肥後サウンドグローリー
代表 宮里コウゾウ